聖女様は男子高校生

第1話 勇者、運命の聖女と出会う

この世界には、古くから語り継がれている伝説がある。

魔王が復活した時、異世界より聖女が召喚される。
聖女は勇者と共に旅立ち、幾多の苦難を乗り越えながら愛を育み――最後には、その愛の力によって魔王を封印するのだという。

勇者となる者は、その時代の王家の第一王子。
そして聖女は必ず、黒髪黒目の美しい少女である。

少なくとも、アルベルト・ヴァンデルハイムは、幼い頃からそう聞かされて育ってきた。

「いいか、アルベルト」

まだ彼が六歳だった頃。
父である国王は、王宮の長い回廊に飾られた肖像画を前に、幼い息子へ厳かな口調で語った。

「もし、お前の代に魔王が復活したならば、お前は勇者として聖女と共に旅立たねばならぬ」

「せいじょ?」

「そうだ」

国王が指差した先には、美しい少女の肖像画が並んでいた。

艶やかな黒髪と夜空のような黒い瞳。
いずれも十代半ばほどに見える、可憐な少女たちばかりだ。

「異世界より召喚される聖なる乙女だ。彼女と共に魔王へ立ち向かい、互いに深く愛し合うことで、魔王を封印する力が生まれる」

「……あいしあう?」

「そして歴代の聖女は、初代を除いて皆、勇者と結ばれ王妃となった」

幼いアルベルトは、もう一度ずらりと並んだ歴代聖女たちを見上げた。
どの少女も、とても美しい。
とくにアルベルトは、初代聖女に一番ときめいた。

「この人たち、みんな勇者のお嫁さんになったの?」

「そうだ」

「じゃあ僕の時に魔王が出たら、この人たちみたいな女の子がお嫁さんになるの?」

「まあ……そういうことになるな」

「へえー」

アルベルトは、キラキラした瞳で呟いた。

その日の夜。
六歳のアルベルトは、寝台の中でしばらく考えた。

魔王は恐い。
戦うのも大変そうだ。
正直、嫌だなぁと思う。

けれど、あんな綺麗な女の子がお嫁さんになってくれるのなら――ちょっとくらい、魔王が出てもいいかもしれない。

そんな不謹慎なことを考えていたのは、もちろん誰にも秘密である。

◇

それから十一年。

アルベルトは十七歳になった。

輝くような金髪に、澄み切った青い瞳。
すらりとした長身に、鍛えられた身体。

王家の血筋を存分に感じさせる整った顔立ちは、舞踏会へ出れば令嬢たちが頬を染め、誰もが熱い視線を送るほどだった。
黙って立っていれば、絵画から抜け出してきた王子様そのものである。黙って立っていれば。

「殿下って、本当に素敵よね」

「ええ。あの美貌に、剣術の腕前まで国内随一ですもの」

「きっと頭も切れるのでしょうね」

――などと言われているうちはいい。

「アルベルト殿下、先日の報告書についてですが」

「ん? ああ、それならヴィオレッタに聞いてくれ」

「……殿下がお決めになる案件ですが」

「そうなのか?」

しゃべると大体こうである。

別に頭が悪いわけではない。
教育を受ければ普通に理解するし、必要な仕事ならきちんとこなす。

だが、勉強も公務も面倒だし、できれば朝は長く寝ていたい。
鍛錬だって休めるなら休みたいし、暇があれば遊びたい。
可愛い令嬢を見れば、つい目で追ってしまう。

本人なりに立派な王子であろうとはしているのだが、根が単純で感情がすぐ顔に出るので、少し話せばだいたいばれる。
要するに、見た目のせいで過大評価されるが、中身はいたって平凡な十七歳の少年だった。

そんなアルベルトには、十年近く連れ添った婚約者がいた。

ヴィオレッタ・ロズウェル。
王国でも屈指の名門公爵家の令嬢である。
腰まで流れる艶やかな銀紫色の髪に、鮮やかな紫の瞳をもつ、冷たさを感じさせるほど端正な美貌の持ち主。

それだけではない。
教養、礼儀作法、政治、語学。
さらに、王国一の大魔法使いである父から受け継いだ魔法の才能まで持ち合わせていた。

アルベルトとは、幼い頃からの仲であり、嫌いではない。
自分に足りない部分を補佐してくれる、素晴らしい婚約者だとは思っている。ただ――

「殿下。昨日提出予定だった報告書は?」

「……今日中にやる」

「昨日もそうおっしゃいましたわね」

「今日こそは本当にやる」

「では昨日は嘘だったのですか?」

「そういう意味ではない!」

アルベルトは、昔からこの婚約者が少々苦手だった。

何せ、優秀すぎる。
彼が一時間かけて理解した内容を、ヴィオレッタは十分で理解する。
彼が三日放置した書類を、彼女は半日で整理してしまう。

未来の王妃として申し分ないどころか、場合によっては自分より王に向いている気さえする。

……だからこそ、ときどき息苦しい。

一方で、アルベルトは幼い頃からある夢を抱いていた。

黒髪黒目の異世界の美少女。
今までに六人現れたという歴代聖女だ。
初代聖女だけは魔王封印後、故郷への思いを捨てきれず、勇者との悲恋の末に異世界へ帰ったという。

しかし二代目以降は、全員が勇者と結婚している。

つまり、もし自分の代で魔王が復活したならば、運命の女性が、異世界から自分のためにやって来る。

そう思うと、自然と頬が緩み、
「……魔王、復活しないかな」
などと、不謹慎なことを考えてしまう。もちろん、本気ではない。

「殿下?」

「いや、何でもない」

ヴィオレッタが訝しげに眉を寄せる。
アルベルトは慌てて視線を逸らした――次の瞬間。

ゴォォォォン。

王都中に、大鐘の音が響き渡った。

通常の時報とは明らかに違う。
重々しく、不吉な鐘の音。
アルベルトの表情から、先ほどまでの緩みが一瞬で消え、ヴィオレッタも立ち上がる。

「……まさか」

遠くから、慌ただしく走ってくる足音が聞こえた。
扉が勢いよく開かれる。

「殿下!」

近衛騎士が飛び込んできた。

「西方各地にて、魔物の異常活性化が確認されました! 王宮魔法院より、魔力波動の照合結果が届いております!」

騎士が息を呑む。

「伝承に記されたものと一致――魔王復活の兆候に間違いないとのことです!」

アルベルトは、しばらく動かなかった。

「……本当に?」

「は?」

「本当に魔王が復活したのか?」

「は、はい!」

「…………」

アルベルトは俯いた。

肩が小刻みに震えている。
ヴィオレッタは一瞬、彼が恐怖に耐えているのだと思った。

いくら勇者として育てられてきたとはいえ、実際に魔王が復活したとなれば無理もない。
彼は勇者である前に、まだ十七歳の少年なのだから。

「殿下……」

そっと声をかける。すると――

「……来た」

「え?」

「ついに来た……!」

アルベルトが勢いよく顔を上げる。その目はキラキラと輝いていた。

「聖女が来る!!」

「…………」

「私だけの黒髪黒目の異世界美少女が!!」

「…………」

ヴィオレッタは、無言になった。
近衛騎士も無言になった。

その冷めた視線に気付いたアルベルトは、

「いや、もちろん魔王復活は国家の一大事だ! よ、喜んでいるわけではないからな!!」

と、言い訳するように早口になる。

「だが聖女召喚は王家に伝わる神聖なる儀式だ! 私も勇者として覚悟を決めねばならないという意味でだな!」

どう見ても浮かれている。
ヴィオレッタは細い目で彼を見た。

「……そうですわね」

「う、うむ」

「とても残念ですわ」

「…………」

その一言で、アルベルトの浮かれた顔が引きつった。

そう、魔王が復活したのだ。
つまり、聖女が召喚される。
そして勇者である第一王子アルベルトは、聖女と結ばれることを期待されている。

そのため――

「……君との婚約を、解消しなければならない」

窓から差し込む日差しの中、彼はできる限り重々しい表情を作った。

「ええ」

本来なら、もっと何かあるのではないか。
泣くとか、怒るとか、縋るとか――アルベルトは少し身構えていた。

しかしヴィオレッタは、驚くほど平静に頷く。

「これは王家のしきたりだ。君に落ち度があるわけでもない」

「はい」

「私としても……その、非常に心苦しい」

「…………」

ヴィオレッタがじっとアルベルトを見る。

「何だ?」

「いえ」

「言いたいことがあるなら言ってくれ」

「では申し上げますが」

ヴィオレッタは微笑んだ。

「殿下。口元が緩んでおりますわ」

「なっ!?」

アルベルトは反射的に口元を押さえた。

「ゆ、緩んでなどいない!」

「そうですか」

「これは悲痛な表情だ!」

「そのようには見えませんけれど」

「私は十年も共に過ごした婚約者との別れを嘆いているのだぞ!」

「では、聖女様がお美しくなかったとしても、今と同じお気持ちなのでしょうね?」

「……そ、それは」

思い切り、目が泳いでいる。

「殿下」

「いや、違う! も、もちろんだ! 当たり前だろう!!」

アルベルトは慌てる。
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。

昔からこうなのだ。
悪人ではない。不誠実というほどでもない。

「分かりました」

ヴィオレッタは立ち上がった。

「王家のしきたりであることは理解しております。婚約解消をお受けいたしますわ」

「ヴィオレッタ……」

「どうぞ、聖女様とお幸せに」

「あ、ああ」

◇

そして翌日。
王宮地下に設けられた巨大な召喚の間には、この国を代表する魔法使いたちが集まっていた。

床いっぱいに、複雑な魔法陣が描かれている。

その中心に立つのは、ヴィルフリート・ロズウェル公爵だ。
ヴィオレッタの父であり、年齢は四十二歳。
淡い灰紫色の髪と紫の瞳をもつ、端正な顔立ちの美丈夫だった。

王国最強の魔法使い。
完璧主義で知られ、魔術研究において彼の右に出る者はいない。

今回の聖女召喚についても、長い年月をかけて準備を整えてきた。
失敗など、微塵も想定していなかった。

「準備は整いました」

ヴィルフリートが静かに告げる。

国王、王妃、重臣たちも儀式に立ち会っていた。
そして勇者となるアルベルト。
元婚約者となったヴィオレッタも、父の補佐としてその場にいた。

アルベルトは先ほどから落ち着かない。

「父上」

「何だ」

「歴代の聖女は、全員、黒髪黒目の美しい少女だったのですよね?」

「今それを確認する必要があるか?」

「念のためです」

国王が白い目を向けた。

「肖像画なら毎日見ていただろう」

「毎日ではありません!」

「週三回くらいか」

「何故ご存じなのですか!?」

ヴィオレッタは聞かなかったことにした。

「始めます」

ヴィルフリートが杖を掲げる。

その瞬間。
床の魔法陣が眩い光を放った。

幾重にも重なる光の輪が回転を始める。
風もないのに、魔法使いたちのローブが激しくはためいた。

アルベルトが息を呑んだ。

――来る。

幼い頃から聞かされ続けた、運命の聖女。

艶やかな黒髪と黒い瞳。
華奢な身体で可憐な容姿。
異世界より現れた少女は、突然知らない世界へ召喚され、不安そうに辺りを見回すのだろう。

そこで自分が優しく手を差し伸べる。

『安心してほしい。私はアルベルト。この国の第一王子だ』

少女は頬を赤らめる。

『あなたが……勇者様?』

『ああ。君のことは私が必ず守る』

完璧だ。

本人は精いっぱい凛々しい表情を作っているつもりだが、鼻の下が伸びているのをヴィオレッタは呆れて見ている。

そして、光が爆発した。

「成功です!」

光の中心に、人影が現れる。
黒い髪に黒い瞳――伝承通りである。

「……っつー……」

低い声がした。

その人物は、床に片膝をついていた。

黒髪は短い。
白い上衣に、裾の広い濃紺の衣服。
右手には、剣とも棒ともつかない奇妙な武器を握っている。

華奢というには少々肩幅が広く、可憐というには少々精悍で。

どう見ても――

「……は?」

アルベルトの口から、間抜けな声が漏れた。
召喚された人物が顔を上げる。

「いってぇ……何だよ、ここ」

十代半ばほどにも見える、まだ幼さの残った顔。
健康的に日に焼けた肌にくっきりした眉。
凛々しい黒い瞳で、整った顔立ちではある。

だが、美少女ではない。

どこからどう見ても。

――男だった。

長い沈黙が流れた。

誰も何も言わない。
国王も、王妃も、魔法使いたちも、ヴィオレッタも。

そして、誰より自信を持ってこの召喚を執り行ったヴィルフリート本人すら、完全に固まっていた。

「…………」

召喚された少年だけが、きょろきょろと辺りを見回した。

「何だこれ」

壁には魔法陣。
ローブ姿の魔法使いたちと帯剣した騎士。
豪華な王族の衣装。

それらを順番に見た後、少年の目が、みるみる輝き始めた。

「……もしかして、ここ、異世界ってやつ!?」

立ち上がったその顔には、恐怖も悲しみもなかった。

「うっわ、マジかよ! すげえ!!」

一方、アルベルトは、わなわなと震え始め、

「…………男」

と、呟くと同時に真っ白になっていた。

「私の……聖女が……」

十年以上、寝ても覚めても夢見ていた――

「運命の黒髪美少女が……男?」

アルベルト・ヴァンデルハイム、十七歳。
この日、勇者と定められし第一王子は、待ちに待った運命の聖女と出会った。


第2話 男の聖女に愛を誓う

異世界より召喚された少年は、目を輝かせながら召喚の間を見回していた。
突然、見知らぬ場所へ放り出されたというのに、怯えた様子など欠片もない。

「本当にファンタジーじゃん! うおっ、あの杖とか魔法使えんの!?」

周囲の者たちは、そんな少年を呆然と見つめることしかできなかった。

無理もない。
彼らが今日ここに迎えるはずだったのは、異世界より現れる黒髪黒目の美しい聖女なのだから。

黒髪黒目までは合っている。
美しいかどうかについても、整った顔立ちではあるので、まあいい。

だが――男である。

紛れもなく男だった。

「…………」

重苦しい沈黙など気にも留めず、少年はぐるりと周囲を見渡した。そして――

「……おお!」

何かを発見したらしい。
その黒い瞳が、先ほど以上に輝いた。

「女神みたいな、めちゃくちゃ美人がいる!」

「……え?」

ヴィオレッタは思わず声を漏らした。
少年が一直線にこちらへやって来る。

「すっげえ! 髪、銀色っぽい紫じゃん! 目も紫! 本物!? 染めてるんじゃなくて!?」

「え、ええ……?」

「ファンタジー世界やっぱすげぇ!!」

至近距離からきらきらした目で見つめられ、ヴィオレッタは完全に面食らった。そうしている間にも、少年はもう別のものへ興味を移していた。

「なあ、あんたが王様?」

「……うむ?」

突然話しかけられた国王が、一瞬返答に詰まる。
少年は物怖じする様子もなく笑った。

「俺、黒瀬蓮! 高校二年生!」

「こうこう……?」

「うん、男子高校生ってやつ! 十七歳! あと剣道やってて、全国大会で優勝したんだぜ!」

「ぜんこくたいかい……?」

「よろしくな!」

「う、うむ……」

一国の王を相手に、あまりにも気安い。
国王の方が押されていた。

「あ、こっちは王妃様? やっぱ綺麗だなー!」

「え、ええ……ありがとう……?」

「服もすげえ! 映画みてえ!」

王妃まで圧倒されている。
そして蓮の視線が、部屋の隅へ向いた。

「ん?」

そこには、完全に灰と化したアルベルトがいた。

「私の聖女が……黒髪美少女が……」

虚ろな目で床を見つめている。

「おお!」

蓮が嬉しそうに近づいていく。

「金髪の超イケメン!」

「…………」

「すっげえな。ゲームとか漫画から出てきたみてえ」

「…………男……」

「でも何か死んだ目してるぞ」

蓮はしゃがみ込む。

「大丈夫か?」

返事がない。

「おーい」

つん、とアルベルトの頬を指で突く。

「…………」

つんつん。

「生きてる?」

「……男……」

「生きてるな」

(やめて差し上げて!)

ヴィオレッタは思ったが、口には出さなかった。

いや、確かに少々思うところはある。
十年来の婚約を解消した直後だというのに、黒髪美少女との運命の恋に胸を躍らせていた男なのだ。

(……自業自得ですわね)

そんなことを考えていると――

「…………男」

別の場所から、低い声が聞こえた。
ヴィオレッタが振り返る。

「お父様?」

ヴィルフリートが立ち尽くしていた。
先ほどから一言も発していなかった父が、召喚陣を凝視している。
その顔色は真っ青だった。

「聖女が……男……?」

「お父様?」

「あり得ない」

わなわなと手が震え始める。

「術式に誤りはなかった。座標も、魔力供給も、召喚条件も全て完璧だった……」

「お父様、落ち着いてくださいませ」

「この私が……?」

ヴィルフリートは自分の両手を見下ろした。

「この私が、聖女召喚に失敗した……?」

ヴィルフリートの身体がぐらりと揺れた。

「お父様!?」

「私が……失敗……」

ばたーん。

「お父様ぁ!?」

王国一の大魔法使いは、白目を剥いて倒れた。

「ヴィルフリート!」

「公爵閣下!」

「誰か医師を!」

召喚の間が一気に騒然となる。

「お、おい! 大丈夫か、おっさん!」

蓮まで駆け寄る。
そして、その混乱に誰もが気を取られた瞬間だった。

ぱきん。

小さな音が響いた。

「……え?」

ヴィオレッタが顔を上げる。

ヴィルフリートが意識を失ったことで、召喚の間を封鎖していた魔術が解けた。
聖女召喚という国家最高機密の儀式中、外部からの侵入を防ぐために扉へ施されていたものだ。

ばんっ!!

召喚の間の扉が勢いよく開いた。

「聖女を捕まえろ!!」

黒いローブをまとった者たちが、一斉になだれ込んでくる。

「何者だ!?」

騎士たちが剣を抜く。
その胸元には、禍々しい紋章。
ヴィオレッタは、それを知っていた。

(邪神教……!)

魔王を神として崇拝する異端の宗教。
人間でありながら魔王の復活を望み、その障害となる聖女と勇者を敵視する者たち。

こういう時こそ、国一番の剣士であり、聖女を守る勇者アルベルトの出番だ。
ヴィオレッタは勢いよく振り返った。

「…………私の聖女」

勇者の目が死んでいる。どうやら生きる屍のようだ。

「私の黒髪美少女が……男」

床にへたり込んだまま微動だにしない。

(駄目だわ!!)

やはり、どうしようもなく見かけ倒しの王子である。

「黒髪だぞ! あれが聖女だ!!」

「へ? 俺?」

蓮が自分を指差した。
どうやら彼らにとっては、黒髪の異世界人がそこにいるというだけで十分らしい。

短剣を構えた男が駆けてくる。

「おおっ!?」

だというのに、蓮の顔には恐怖より驚き、そして妙な高揚感が浮かんでいた。

「マジで敵まで出てきた!」

「喜んでいる場合ですの!?」

ヴィオレッタは近くに置かれていた自分の杖を掴んだ。

父には及ばない。
だが彼女自身、ロズウェル公爵家の令嬢として幼い頃から高度な魔法教育を受けている。
並の魔法使いを遥かに凌ぐ実力は持っていた。

(アルベルト殿下が役に立たないなら、私が!)

杖の先端へ魔力を集める。

「蓮様! 下がって!」

「大丈夫! 俺も――」

「その棒で真剣を相手にしないでくださいませ!」

「竹刀な!」

「どちらでもいいですわ!!」

邪教徒が蓮へ迫る。
ヴィオレッタが杖を向けた――その時。

「…………」

死んだ目をしていたアルベルトの瞳が、カッ!と見開かれた。

「……え?」

ヴィオレッタの手が止まる。
アルベルトが立ち上がった。

その動きには先ほどまでの生気のなさなど欠片もない。

一瞬で腰の剣を抜くと、床を蹴った。

キィン!!

「なっ!?」

蓮へ振り下ろされる寸前だった短剣を、アルベルトの剣が弾き飛ばした。

「おおっ!」

アルベルトは何も答えない。
そのまま一歩踏み込み、一閃のもと敵を倒した。

「ぐあっ!」

さらに、背後から迫る二人目へ振り返ることすらなく剣を返す。

甲高い音。
敵の武器が宙を舞う。

「くそっ!」

「囲め!」

複数の邪教徒が同時に襲いかかる。
だがアルベルトは、尋常でない速さだった。

一人、二人、三人。
流れるような剣技で次々と敵を退けていく。

「すっげえ!!」

蓮が歓声を上げる。

「こいつ、めちゃくちゃ強え!!」

ヴィオレッタも息を呑んでいた。

右から一人。次に左から二人。
背後から魔法が襲いかかるが、それを剣で弾き、最後に聖女の背後へ回った一人を――。

「はあっ!」

アルベルトが振り返りざまに剣の柄で打ち据えた。
あっという間に、最後の邪教徒が床に崩れ落ちる。

召喚の間に静寂が戻った。

「…………」

アルベルトは無言で剣を鞘へ収めた。

「お前、すっげえな!」

蓮が嬉しそうに駆け寄る。

「さっきまで死んだ目してたのに、めちゃくちゃ強えじゃん!」

「…………」

「助けてくれてありがとな! なあ、あとで俺にも稽古つけてくれよ!」

「…………」

「俺、剣道なら結構強いんだぜ。こっちの剣も使ってみてえし!」

アルベルトは答えなかった。
ただ、ゆっくりと蓮へ向き直り、右手を伸ばした。

「ん?」

蓮の顎へ、そっと手を添える。

召喚の間が静まり返った。

蓮は訝しがるように首を傾げ、アルベルトは、そんな蓮の黒い瞳をまっすぐ見つめた。
――そして、甘く優しい声で囁いた。

「無事か?」

ヴィオレッタは、ぎょっとした。

(で、殿下? 何か、いつもと雰囲気が違いますわ)

表情もしぐさも声色も、全てが完璧で見惚れるほどにかっこいい。

「怖い思いをさせてすまない」

「……は?」

「だが――」

アルベルトは、それはそれは凛々しい王子様の顔で宣言する。

「君のことは私が、この命に代えても守り抜く!」

「…………」

完全な静寂。
誰一人として何も言わない。

蓮がぱちぱちと瞬きをした。

「……何してんの?」

アルベルトは答えない。
無言で蓮の顎へ手を添え続けている。

「なあ、もう敵いないぞ?」

「…………」

蓮はアルベルトの手首を掴んだ。

「もう大丈夫だから、いい加減離せよ」

ぺしっと、その手を払いのける。

「それと俺、自分の身くらい自分で守るからな!」

その瞬間だった。

「…………っ!?」

アルベルトの身体がびくりと震えた。

瞳に光が戻る。

「……え?」

自分の右手を見る。
目の前の蓮を見る。

そして周囲を見る。

全員が何とも言えない顔でこちらを見ている。

「…………」

アルベルトの顔から、さあっと血の気が引いた。

「わ……私は……一体、何を……」

「何って、俺のこと助けてくれただろ?」

「その後だ!!」

「顎触って、よく分かんねぇけど、俺のことを守るだ何だの言ってたな」

「うわあああああああ!!」

アルベルトが絶叫した。

「ち、違うんだ!!」

「何が?」

「今のは私ではない!」

「いや、お前だったけど」

「か、身体が勝手に動いたんだ! 本当だ! 断じて私の意思ではない!!」

アルベルトは顔を真っ赤にして叫ぶ。

「大体、何故私が男の顎など!! 一体どういうことだ!」

「俺だって知らねえよ」

「しかも命に代えて守るだと!? 誰が!? 誰があんな台詞を私に言わせた!?」

「お前じゃね?」

「私ではない!!」

「めんどくせえな、お前!」

「誰のせいだと思っている!!」

「俺のせいじゃねえだろ!」

二人が言い争う声が、召喚の間に響く。

ヴィオレッタは、その光景を呆然と見つめていた。

(……待って)

何かが引っかかる。

先ほどのアルベルト。
蓮の顎へ手を添え、甘く優しい声で無事を問い、その命に代えても守り抜くと誓った。

どこかで見たことがある。

それも、かなり昔に――。

「…………あ」

ヴィオレッタの脳裏に、一冊の本が浮かんだ。

『聖女は勇者に恋をする』

およそ千年前、五代目聖女と勇者の魔王封印の旅をモデルに描かれた恋愛小説である。

かつては国中で読まれた大ベストセラーだったが、刊行からすでに千年近い。今では題名はともかく、本文まで知る者は、古典文学の愛好家くらいだろう。

読書好きのヴィオレッタは、その本を読んだことがある。
そして、そこにあったのだ。

旅立ちの直後。
初めて敵に襲われた聖女を、勇者が救い出す場面。

『怖い思いをさせてすまない』

そう言って、聖女の顎へ手を添え――。

『君のことは私が、この命に代えても守り抜く!』

「…………」

ヴィオレッタの顔から、ゆっくりと表情が消えた。

(同じですわ)

似ているという程度ではない。

仕草も。
状況も。
そして何より――台詞まで。

ほとんど、そのままだった。

ヴィオレッタは、未だ蓮と言い争っているアルベルトを見る。

(……殿下が、あの本を?)

あり得ない。

アルベルトは古典文学どころか、本そのものを好んで読む人間ではない。
ましてや、そんな古い恋愛小説を自分から読むとは思えない。

仮にどこかで知っていたとしても――。

(何故、よりによって今、その場面をそっくり再現なさるの?)

アルベルト自身も、つい先ほどまで聖女召喚で現れたのが男であることに絶望していた。
そんな相手へ、突然あの名場面を再現する理由などない。

「…………」

(……一瞬だけ、本当に完璧な王子様に見えたけれど。何だったのかしら今の)

胸の奥に生まれた小さな違和感だけが、どうしても消えなかった。


第3話 男同士で愛し合えと!?

アルベルトと蓮が言い争う声が、召喚の間に響き渡っていた。

「だから私は自分の意思であんなことをしたのではない!」

「分かったって。何回言うんだよ」

「分かっている顔ではないだろう!」

「じゃあ、どういう顔すりゃいいんだよ!」

つい先ほどまで聖女を命に代えて守ると宣言していた勇者と、その聖女である。
到底そうは見えない。
その光景を見ていた周囲の者たちも、何とも言えない表情を浮かべていた。

もっとも、大半は深く考えていなかった。
アルベルトが幼い頃から黒髪黒目の美しい聖女を夢見ていたことは、王宮ではそれなりに知られている。

待ちに待った聖女召喚。
ところが現れたのは男。
そこへ突然の襲撃まで重なったのだ。

あまりの衝撃に放心し、無意識のうちにあんな言動を取ってしまったのだろう――その程度に受け取られていた。

ただ一人、ヴィオレッタだけは腑に落ちなかった。
先ほどの仕草も台詞も、千年前の恋愛小説『聖女は勇者に恋をする』の名場面そのものだったからだ。

そこへ、

「……陛下。これは」

と、低い声が割って入った。

「どうした?」

国王が振り返った。
騎士の視線の先には、先ほどアルベルトが斬り伏せた邪神教徒が倒れている。

いや、倒れていた。

「……え?」

ヴィオレッタが目を見開く。

黒いローブの下から、男の身体が崩れ始めていた。
皮膚が、肉が、骨までも――
まるで燃え尽きた紙のように、さらさらと黒い灰へ変わっていく。

「うおっ!?」

蓮が言い争いをやめて振り返った。

「何だあれ!?」

ほんの数秒。
そこにあったはずの身体は完全に消失し、床には黒い衣服だけが残された。

室内が沈黙する。

「……魔族だ」

国王が呟いた。
その声から、先ほどまでの軽さが消えている。

「魔族? 人間じゃなかったってこと?」

「ああ」

険しい表情で国王が頷いた。
騎士たちが他の襲撃者を確認していく。

「こちらは人間です。意識を失っていますが、命に別状はありません」

「こいつも人間です!」

「陛下。灰になったのは、この一名だけかと」

「なるほどな。邪神教徒の中へ魔族が入り込み、人間どもを扇動していたか」

その事実に、一人の老魔術師が、困惑した顔でアルベルトを見る。

「……しかし殿下は、なぜ魔族を滅ぼせたのでしょう」

「何?」

アルベルトが眉を寄せる。

「魔族は、人間の力では完全に滅ぼせないはずです。いえ、正確には――」

老魔術師が説明する。

「剣で斬ることも、魔法で焼くこともできる。大きな傷を負わせれば、一時的に退却させることも可能です。ですが、人間の力だけでは致命傷には至りません。どれほど身体を破壊しても、魔族は魔力によって再生する。ゆえに、真に滅ぼすことのできる力は」

その視線が、蓮へ向いた。

「聖女の力を受けた勇者だけです」

「聖女?」

「……なるほど」

国王が何かに気づいたように息を吐く。
そしてアルベルトを見る。

「お前、先ほど戦った時のことを覚えているか?」

「敵を斬ったことは……」

「身体に何か変化はなかったか」

「変化?」

アルベルトは腕を組んだ。

「そういえば……」

自分の手を見る。

「妙に身体が軽かったような」

「やはりな」

国王が頷く。

「それは、勇者覇気だ」

今度は蓮が首を傾げた。

「ゆうしゃはき?」

「勇者だけが発現できる特殊な力だ。本来は聖女との絆が十分に深まった時、その聖なる力を受けることで発動する。身体能力も大幅に増幅され、魔族を完全に滅ぼす力を得る」

「何それ、めっちゃかっけえ!」

蓮の目が輝いた。
一方、アルベルトは嫌な予感しかしない顔になった。

「待ってください、父上」

「何だ」

「本来は聖女との絆が深まった時、とおっしゃいましたね?」

「ああ」

「では何故、今の私に発動したのです? 私はこのような男、絆どころか聖女として認めてもいません!」

「お前、失礼だな!」

「事実だ!」

「勇者覇気には例外があるのだ」

国王が実にあっさり答えた。

「聖女が危機に陥り、それを勇者が守ろうとした場合――この時だけは、二人の関係にかかわらず、無条件で発動する」

そして、蓮を指差す。

「つまり、黒瀬蓮――かの者は男だが、間違いなく聖女だ」

一同の視線が、一斉に蓮へ集まった。
アルベルトは、今度こそ本当に、自身まで灰になりそうな顔をしていた。

◇

騒ぎが落ち着いた後。
場所を王宮の謁見の間へ移し、蓮の詳しい鑑定が行われることになった。

蓮は鑑定用の水晶へ手を触れている。

「おお……!」

魔術師たちから驚きの声が上がった。
透明だった水晶が、一瞬で眩い白銀の光に満たされる。

「何だ何だ?」

蓮が面白そうに覗き込む。

「光魔法の適性……これは……」

担当の魔術師が何度も数値を確認する。

「歴代聖女の記録を大幅に上回っています」

「マジで!?」

蓮が嬉しそうに笑った。

「俺、魔法の才能あんの!?」

「あります。それも、とてつもなく」

「うおーっ!」

両拳を握る。

「魔法使えるのか! 火の玉とか出せる!?」

「いいえ」

「え?」

「聖女様の光魔法は、主として治癒、結界、そして勇者への力の付与に特化しております」

「攻撃魔法は?」

「基本的にはございません」

がくっと、蓮の肩が落ちた。

「何だよー」

歴代最高クラスの才能だと言われた直後とは思えないほど露骨に落胆している。

国王も、重々しく頷いた。

「黒瀬蓮」

「ん?」

「改めて告げよう。貴殿をヴァンデルハイム王国は正式に、今代の聖女として認める」

「おお!俺、男だけど聖女になれるんだな」

「……そういうことになる」

複雑そうな声だった。

「魔王復活の折、この世界は異世界より聖女を迎える。それが古来より続く定めだ」

国王は、蓮へ魔王と聖女について説明していった。

およそ数百年に一度。
魔王がこの世界へ現れる。

すると各地の魔物が狂暴化し、人々を襲うようになる。
それに対抗するため、異世界から聖女を召喚する。

そして王家の第一王子が勇者となり、聖女と共に魔王のもとへ向かうのだ。

「つまり!」

蓮が勢いよく身を乗り出した。

「魔王がいて! 勇者がいて!」

「そうだ」

「俺が聖女で!」

「……私はまだ納得してはいないが」

横からアルベルトが、苦々しく言う。

「で、魔王を倒しに行くんだな!?」

「正確には封印だ」

「どっちでもいい! すっげえ!」

蓮は椅子から立ち上がりそうな勢いだった。

「めちゃくちゃファンタジーじゃん!」

喜んでいる。
とんでもなく喜んでいる。

「俺やるぜ!」

「……即答か」

国王の方が驚いていた。

「帰りたいとは思わないのか?」

「そりゃ帰れるなら帰るけどさ」

蓮はあっけらかんと答えた。

「今すぐ帰れねえんだろ?」

「現時点ではな」

「だったら、うじうじしててもしょうがねえじゃん。それに魔王とか超見てえし!」

「…………」

「ドラゴンとかもいる?」

「いる」

「マジで!?」

「そこに食いつくのか……」

アルベルトが呆れる。

「じゃあ俺、やる! 魔王倒して、世界救ってやるよ!」

「だから封印だと言っているだろう」

「細けえなあ」

「細かくない!」

ヴィオレッタは、妙なところで感心していた。

(ものすごい適応力ね……)

歴代の聖女とは何もかもが違う。
彼女らは、一様にして元の世界へ帰れない可能性に泣き、不安と恐怖に押し潰され、そのたびに勇者の深い愛に支えられていた、と記録されている。

「ただし、重要なことが一つある」

国王が口を挟んだ。

「何?」

「魔王を封印するためには、勇者と聖女が旅の中で絆を育まねばならぬ」

「絆?」

「そう。要するに――愛だ」

蓮の笑顔が止まった。

「愛?」

「うむ」

「誰と誰の?」

「お前とアルベルトだ」

国王が隣を指差す。
蓮がゆっくり首を動かした。

その先には、蜂蜜色の金髪をした超絶美形の第一王子。

「……こいつ?」

「こいつとは何だ!」

アルベルトが立ち上がる。
蓮はアルベルトを上から下まで眺めた。

「男じゃん! 嫌だ!! 俺、女の子が好きなんだけど」

「私だって女性が好きだ! 男など死んでも御免だ!」

二人の声が綺麗に重なった。

「父上! いくら何でも無理です!」

「しかし聖女だぞ」

「男です!」

「それは見れば分かる」

「分かっているなら何とかしてください!」

アルベルトは頭を抱えた。

「歴代聖女は違ったではありませんか! 黒髪黒目で、華奢で可憐な美少女ばかりだった!」

「まあ、そうだな」

「お前! ちょっと来い!」

「何だよ」

アルベルトは半ば強引に聖女の間に蓮を連れ、そこに並ぶ肖像画を指差した。

「見ろ!」

そこには、歴代六人の聖女たちが描かれている。

黒髪で黒い瞳。
十代半ばほどの少女たち。
髪型や顔立ちには違いがあるものの、皆一様に可憐な美少女だった。

とくに、この世界では黒髪も黒目も存在せず、柔和な顔の造りも大変珍しいため、神秘的にすら映るのだ。

「これが聖女だ!」

「へえー」

「へえー、ではない!」

「確かにみんな可愛いな」

「そうだろう!?」

何故かアルベルトが誇らしげになる。

「私が幼少期より聞かされてきた聖女とは、このような女性なのだ!」

「知らねえよ」

蓮は肖像画を順番に眺めていた。

「……あれ、なんか初代の聖女って、美咲っぽいな」

「は?」

アルベルトが、思わず聞き返した。

「美咲とは誰だ?」

「ん? 双子の妹だけど」

その言葉に、アルベルトはがしっと蓮の両肩を掴んだ。

「お前がこちらへ召喚された時、何があったか詳しく教えろ!」

「お、おう? 何って……」

蓮が首を傾げる。
アルベルトは構わず詰め寄り、蓮は少し考え、記憶を辿った。

「俺、部活中だったんだよ」

「ブカツ? その木の棒を使って戦っていたのか?」

「うん、まぁそんなところかな。で、練習終わりくらいに、美咲が差し入れ持ってきて――そしたら、いきなり美咲の足元が光ったんだ」

アルベルトが息を呑む。

「魔法陣みたいなのが出てきて、美咲が吸い込まれそうになったから」

「……それで?」

「危ねえ! って思って突き飛ばした」

蓮は自分を指差した。

「そしたら俺が入った」

「…………」

あとを付いてきていた全員が黙った。

「で、気づいたらここ」

聖女が男だった原因――明らかであった。

本来召喚陣が選んだのは、蓮の双子の妹・黒瀬美咲。
その美咲を蓮が突き飛ばし、代わりに自分が魔法陣へ飛び込んだのだ。

「父上」

アルベルトが真顔で国王を見る。

「その美咲という少女を、もう一度召喚しましょう」

「無理だ」

「なぜ!?」

「聖女召喚は一度だけだ」

「何とかなりませんか!?」

「ならん」

国王は蓮を見る。

「恐らくだが、聖女の力そのものは『異世界より来た者』に宿る性質なのだろう」

「誰でもなれるもんなの?」

「少なくとも、お前にこれほど強い聖女の力が宿った以上、その可能性は高い」

歴代の記録では、聖女は例外なく黒髪黒目の美少女だった。
ならばそれは、聖女の力を得る条件ではなく――。

「勇者と愛を育む相手として、都合のよい者が選ばれていたのかもしれんな」

「何ですかその身も蓋もない理由は!?」

アルベルトが叫ぶ。

「いや、合理的ではあるぞ」

「父上!」

「毎回、王子と恋に落ちてもらわねばならんのだ。最初から美しい娘を選ぶ方が成功率は高かろう」

「それは……」

否定できなかった。
何しろ本人がその恩恵を、鼻の下を伸ばして心待ちにしていたのだ。

「しかし今回は、その選ばれた美咲という少女を蓮が突き飛ばし、代わりに召喚された」

国王は大きくため息を吐いた。
そして、非常に真面目な顔で二人を見た。

「よって、ここは世界のためだと思って、二人で愛し合ってくれぬか」

蓮とアルベルトに向かって手を合わせる。

「嫌だ!!」

「無理!!」

また綺麗に重なった。

「即答するな!」

「するだろ普通!」

「父上! 何を馬鹿なことをおっしゃっているのですか!」

アルベルトが顔を真っ赤にする。

「そもそも男同士の関係は、国教でも禁じられているではありませんか!」

「あー、その教義な」

国王は急にどうでもよさそうな顔になった。

「前々から古臭いと思っていた」

「父上?」

「世界滅亡の危機なのだ。今さら男同士だなんだと細かいことを言っていられるか」

「細かいことではありません!」

「必要なら法も教義も見直せばいい」

「父上ぇぇぇぇ!!」

アルベルトの叫びが王の間に響く。

「いっそ同性でも婚姻できるよう法改正するか」

「何故そこまで話が進むのですか!?」

「世界のためだ」

「世界のために息子を犠牲にする気ですか!!」

その言葉に、国王の表情が厳しいもの変わる。そして――

「馬鹿者!!」

雷が落ちたかのような怒声が響いた。

「――っ」

アルベルトが息を呑む。
その表情から、先ほどまでの冗談めいた空気が消えていた。

「犠牲になっているのが、お前だけだと思うな」

「……父上?」

「蓮を見ろ」

国王が蓮を指した。

「この者は、この世界の人間ですらない。我が国にも、魔王にも、何の責任もないのだぞ」

蓮が少しだけ目を丸くした。

「本来ならば、何の関係もない異世界で、家族や友人と暮らしていたはずの少年だ」

「…………」

「それを、偶然こちらへ召喚されたというだけで、帰る術も分からぬまま、命を懸けて魔王封印へ赴けと言われているのだぞ」

アルベルトの拳から、ゆっくりと力が抜けた。

「それでも蓮は、一度でも我々を責めたか?」

「…………」

――責めていない。
アルベルトは気づく。

召喚された直後から、蓮は『ここ、異世界ってやつ!?』と笑っていた。

聖女だと告げられて、魔王の話を聞いて『世界救ってやるよ!』と、まるで自分のことのように言った。

「帰せと喚いたか?」

「……いえ」

「魔王など知るものかと、拒絶したか?」

「…………して、いません」

「そうだろう」

国王は、真っ直ぐ息子を見る。

「深く感謝こそすれ、『男だから嫌だ』『こんなのは聖女ではない』などと、いつまでも騒ぎ続けるとは何事だ」

アルベルトは、何も言えなかった。

そして今さらながら、痛感した。
黒瀬蓮には、この世界を救う義務など、どこにもないことに。

「…………」

アルベルトは、ゆっくりと蓮を見る。
蓮は困ったように頭を掻いた。

「いや、別に、そんな大層なことじゃなくね?」

アルベルトの眉が動く。

「俺が勝手に美咲助けて、こっち来ただけだし」

「……お前」

「そりゃ帰れねえのは困るけどさ」

蓮は、肩をすくめた。

「でも、来ちまったもんは仕方ねえだろ? 魔王放っといたら、こっちの人が困るんだろ?」

「ああ」

「じゃあ倒せばいいじゃん」

何でもないことのように言う。

「命懸けになるんだぞ」

アルベルトが、気づけばそう聞いていた。
蓮が、きょとんとする。

「そりゃそうだろ」

「怖くないのか」

「怖くねえって言ったら嘘だけど」

蓮は、少しだけ考えて笑った。

「でも俺、何もしないでビビってる方が嫌だし。どうせやるなら、勝ちたいじゃん」

「…………」

アルベルトは、答えなかった。
ただ、先ほどまでとは、ほんの少しだけ蓮を見る目が変わっていた。

ヴィオレッタは、考えていることがすぐ顔に出るアルベルトを見れば、おおよそその思考が分かる。

(……あら?)

まだ好意と呼べるほどのものですらない。
ただ、アルベルトが初めて『男の聖女』ではなく、黒瀬蓮という一人の人間を見ている気がした。

「……ていっても、俺は男と恋愛する気はねぇけどな」

蓮は腕を組みながら言う。

「……私もないからな!」

一瞬だけ言葉に詰まった後、アルベルトが念を押すように言った。

「お前は黙ってろ」

「何故だ!」

「話進まねえから」

アルベルトが不満げに黙った。

「でさ、愛を育まないと魔王を『封印』できないんだろ?」

「ああ」

国王が頷く。

「なら、封印じゃなくて、倒せばいいんじゃねえの?」

蓮は、いかにも簡単なことを思いついたという顔で言った。

「…………」

その間が静まり返った。

「……魔王を、倒す?」

国王がゆっくり口を開く。

「そう」

蓮はあっさり頷く。

「だって封印だから、何百年かしたらまた出てくるんだろ?」

「その通りだ」

「だったら、今回ぶっ倒しちまえばいいじゃん」

国王が顎へ手を当てた。

「これまで歴代の勇者と聖女は、魔王を封印することのみを目的としてきた」

誰も魔王そのものを滅ぼしたことはない。
だから魔王は、いずれ封印を破り、再び現れる。

「確かに……倒すことが可能ならば、それに越したことはない」

「だろ?」

「それだ!!」

突然、アルベルトが叫んだ。

「うおっ」

勢いよく蓮の両肩を掴む。

「何だよ!」

「お前、頭がいいな!」

「普通じゃね?」

「いや、天才だ!」

つい先ほどまで男の聖女だと絶望していた男とは思えない。

「男と愛を育むなどという無理難題に挑むより、魔王を倒す方が遥かに簡単だ!」

「よし! じゃあ魔王を倒せるくらい強くなろうぜ!」

蓮が拳を握る。

「ああ!」

アルベルトも拳を突き出した。

ごつんと、二人の拳がぶつかる。

つい先ほどまで、『男など御免だ!』『俺だって嫌だ!』と叫び合っていた二人が、初めて完全に意気投合した瞬間だった。

その光景を、ヴィオレッタは複雑な表情で眺めていた。

(……そんなに簡単にいくのかしら?)

二人は重要なことを忘れている。

いや、蓮は知らない。
アルベルトも、単純なので深く考えていない。

魔王を封印するためだけではない。

魔王に大きな傷を負わせるためにも、聖女の力とそれにより増幅される勇者覇気が絶対不可欠である。
そして、その強さを左右するものこそ――

(結局、二人の愛なのよね……)

歴代の記録では、それは明確に恋愛として描かれていた。

魔王を倒すためには強くならなければならない。
強くなるためには、二人の関係を深めなければならない。

にもかかわらず――

「よっしゃ! 魔王倒すぞ!」

「絶対に恋愛などせずに世界を救ってみせる!」

二人は実に晴れ晴れとした顔をしている。
ヴィオレッタは、小さくため息をついた。

(前途多難だわ……)

こうして、恋愛など絶対に御免だという勇者と聖女は、愛の力など使わず、魔王そのものを倒すことを目標に掲げたのだった。


第4話 王子様、初めての友達

恋愛などせず、魔王そのものを倒す。

その一点で完全に意見が一致した蓮とアルベルトは、つい先ほどまで言い争っていたのが嘘のように意気投合していた。

「で、魔王ってどのくらい強いんだ?」

「知らん」

「知らねえの?」

「歴代勇者の記録には残っているが、実際に戦ったことがある者など、今の時代にいるわけがないだろう」

「そりゃそうか」

「ただ、歴代の記録を見る限り、人間とは比べものにならんほど強い」

「へえー」

聖女の間から出た後も、蓮は楽しそうだった。
これから命を懸けて戦いに行くというのに、怖がるどころか聞きたいことが次から次へと湧いてくるらしい。

「アルベルト」

「何だ」

「剣の稽古つけてくれよ」

「…………」

アルベルトが足を止めた。
少し遅れて歩いていたヴィオレッタも、つられて立ち止まる。

「今、何と言った?」

「だから、剣。さっきお前、めちゃくちゃ強かったじゃん。俺もこっちの剣使ってみたいし、教えてくれよ」

「いや、その前だ」

「前?」

「私を何と呼んだ」

蓮は少し考えた。

「アルベルト?」

「…………」

「名前、合ってるだろ?」

「そういう問題ではない!」

アルベルトの声が廊下へ響いた。

「私はこの国の第一王子だぞ! 普通、王族を呼び捨てにする者があるか!」

「え、駄目なの?」

「駄目に決まっている!」

「じゃあ何て呼べばいいんだよ」

「アルベルト殿下だ!」

「長えな」

「どこがだ!」

蓮は腕を組んで考え込んだ。

「じゃあ、アルでいい?」

「何故さらに短くなった!?」

ヴィオレッタは思わず顔を背けた。

笑ってはいけない。
しかし、あまりにも蓮が自然すぎる。

「アルでいいじゃん。呼びやすいし」

「よくない!」

「アル」

「呼ぶな!」

「アルー」

「貴様ぁ!!」

アルベルトの顔が赤くなる。

怒っている。
確かに怒っているのだが――

十年近く彼を見てきたから分かる。

本気で不快なら、アルベルトはもっとはっきり拒絶する。
それに今の彼は、怒っているというより、困惑しているように見えた。

「大体、愛称など……!」

「愛称? あだ名みたいなもんか。じゃあ、ちょうどいいじゃん」

「何がだ!」

「友達っぽくて」

「…………」

今度こそ、アルベルトが完全に黙った。
蓮は気づかず、そのまま続ける。

「これから一緒に魔王倒しに行くんだろ?」

「あ、ああ」

「だったら俺たち、友達……」

そこで少し考え。

「いや、戦友ってやつじゃね?」

「…………戦友」

「そうそう」

蓮はにっと笑った。

「だから俺のことも蓮でいいからな、アル」

「…………」

アルベルトは、目の前で笑っている少年を、ただ呆然と見ている。

友達。

戦友。

そんなふうに自分を呼んだ者は、これまで一人もいなかった。

王宮には同年代の貴族子息も大勢いる。
幼い頃から共に剣を学んだ者もいれば、同じ教師から学問を習った者もいた。
だが、誰もが彼を『殿下』と呼んだ。

剣の稽古をしても、相手はどこか遠慮する。
第一王子へ怪我をさせることを恐れ、本気で打ち込んでこない者も多かったし、実力が拮抗していても最後には勝ちを譲られてしまうことさえあった。

何をして遊ぶか、どの訓練をするか。
そんな些細なことですら、アルベルトが希望を口にすれば、皆が「ではそういたしましょう」と合わせた。
何か意見を言えば、大抵は肯定された。

時折ヴィオレッタだけは容赦なく苦言を呈してきたが、彼女は婚約者であり、公爵令嬢であり、将来の王太子妃だった。
最初から、彼に意見することを許された立場にいる。

それとは少し違う。

蓮は、何の遠慮もない。
王子だからと持ち上げることもなければ、機嫌を窺うこともせず、当然のように自分を『友達』だと言った。

「…………」

アルベルトは、自分でもよく分からない感覚を覚えていた。

胸の奥が、妙に温かい。
それなのに、どこかむず痒い。

「何だよ」

蓮が首を傾げる。

「嫌なら別にいいけど」

「……嫌とは言っていない」

「じゃあアルで決まりな」

「待て! 私は許可していない!」

「今、嫌じゃないって言ったじゃん」

「それとこれとは話が違う!」

「めんどくせえなあ」

「何だと!」

再び言い争いが始まる。
だが、ヴィオレッタには分かった。

アルベルトの口元が、ほんの少し緩んでいる。

(嬉しいのね)

◇

そのまま三人は、王宮の訓練場へ向かった。

明日は、召喚された聖女を国民へ披露する大規模な式典が行われる。
そして翌朝には王都を出発し、魔王のいる西方へ向かわなければならない。
時間に余裕はなかった。

「これがこっちの剣か」

訓練場へ着くなり、蓮は壁に並んだ訓練用の剣を物珍しそうに眺めた。

刃を潰した鉄剣、木剣、盾、槍。
見たことのない武器もいくつかある。

「触るな」

「何でだよ」

「扱い方も知らないだろう」

「だから教えてくれって言ってんじゃん」

「お前は聖女だぞ」

「それが?」

「聖女は剣を振るわん」

「今まではだろ?」

「今までも何もない。聖女とはそういうものだ」

アルベルトは当然のことのように言う。

「歴代聖女は皆、後方から勇者を支援した。傷を癒やし、結界で身を守り、必要に応じて勇者へ力を与える。前へ出て敵と斬り合うような聖女など聞いたことがない」

「ふーん」

「だからお前も――」

アルベルトが一瞬、言葉に詰まった。
先ほど国王に叱責されたことを思い出したらしい。

少し気まずそうに視線を逸らす。

「その……」

「何?」

「私は勇者だからな。お前……いや」

咳払いを一つ。

「聖女である蓮を守るのは、私の役目だ」

「…………」

言いながら、アルベルト自身も少し照れくさそうだった。
つい先ほどまでは、男の聖女など認めないと言っていたのだ。

「魔王のところまでは私が連れていく。だから蓮は、安心して後ろで守られていればいい」

得意げに胸を張る。
我ながら『勇者らしいかっこいい台詞ではないか!』と、心の中で自画自賛したが――

「嫌だ!」

「何故だ!!」

即答で拒否された。

「せっかく異世界に来たのに、ずっと後ろで見てるだけとかつまんねえじゃん!」

「遊びではないぞ!」

「分かってるって」

蓮は持ってきていた竹刀を手に取った。

「でも俺、剣道ずっとやってきたんだぞ。全国大会でも優勝してるし」

「その棒でか?」

「竹刀な」

蓮は笑い、竹刀を構えた。
それまでの気楽な雰囲気が、ほんの少し変わる。

「…………」

アルベルトの目が細くなった。

足の置き方、腰の位置、竹刀を握る手。
剣の形も構え方も、この世界の剣術とは違う。

だが、素人ではない。それだけは一目で分かった。

「ほぅ。一応、様にはなっているな」

「一応って何だよ」

「事実だ。お前の世界の剣術など私は知らん」

「じゃあ試してみる?」

「何?」

「一本勝負」

アルベルトが眉を上げた。

「やめておけ」

「何で」

「私はこの国で最も強い剣士だぞ。怪我をする」

「へえ」

「信じていないな?」

「いや、さっき見たから強いのは分かってる」

蓮は竹刀を肩へ載せる。

「だからやってみたいんじゃん」

「…………」

その一言で、アルベルトの青い瞳が、少し楽しそうに光った。

「いいだろう」

「殿下?」

ヴィオレッタが止めようとする。
だがアルベルトは、訓練用の木剣を一本手に取った。

「もちろん本気ではやらん」

「その言い方、ムカつくな」

「事実だ」

「一本取られても言えよ、それ」

「私から一本?」

アルベルトが鼻で笑った。

「面白い冗談だ」

「よし、絶対一本取る」

「できるものならやってみろ」

数分前まで聖女を戦わせるつもりなど全くなかった男が、一瞬で乗せられている。
ヴィオレッタは頭を抱えた。

(本当に単純なんだから……)

◇

二人は訓練場の中央で向かい合った。

アルベルトは片手で木剣を持っている。
完全に手加減するつもりだ。

一方、蓮は竹刀を正眼に構えていた。

「ルールは?」

「先に有効打を入れた方が勝ち」

「急所へ当てればいいのか」

「まあ、そんな感じ」

「分かった」

アルベルトは軽く木剣を構えた。

「いつでも来い」

「じゃあ遠慮なく」

直後、蓮が踏み込んだ。

「――っ」

ぱんっ!

乾いた音が響く。
アルベルトが反射的に木剣を上げた。
竹刀と木剣が激しくぶつかる。

「……!」

――速い。

アルベルトの表情が変わった。
もちろん、自分より速いわけではない。

力も比べものにならない。
だが、先ほどまでの気の抜けた少年と同一人物とは思えないほど、動きが鋭い。

踏み込みに迷いがない。狙いも明確だ。

「なるほど」

アルベルトが笑う。

「本当に剣をやっていたようだな」

「だから言ってるだろ!」

蓮が再び踏み込む。
竹刀が頭上から振り下ろされた。

アルベルトは受け流す。
そのまま横へ回り込み、蓮の肩へ木剣を当てようとした。

だが――

「っ!」

蓮が身体を捻る。
ぎりぎりで避けた。

「ほう」

「お前、速すぎ!」

「これでもかなり遅くしている」

「腹立つな!」

再び竹刀が振るわれる。

アルベルトは軽々と捌く。

一撃。

二撃。

三撃。

技術体系は違うが、蓮は確かに強かった。
少なくとも、同年代の一般的な少年とは比較にならない。

身体そのものはこちらの騎士ほど鍛えられてはいないが、動きに無駄が少なく、何より相手との間合いを読むのがうまい。

「悪くない」

「上から目線だな!」

「実際、私の方が上だからな!」

「くそっ!」

蓮が間合いを切る。
アルベルトも追わない。

数歩の距離で互いに構える。

「…………」

蓮の目が変わった。

それを見た瞬間。
アルベルトの口元も、自然と上がった。

「来い」

蓮が動く。
真っ直ぐ、あまりにも真っ直ぐな踏み込み。

「単純だ!」

アルベルトは竹刀を受けようと木剣を上げる。

その瞬間。
蓮の身体が僅かに沈んだ。

「な――」

軌道が変わる。
頭ではない――胴。

ぱんっ!

竹刀がアルベルトの脇腹へ触れた。

「…………」

「…………」

蓮が目を見開く。

「……入った?」

アルベルトも、自分の脇腹を見下ろした。

確かに竹刀が当たっている。
もっとも、本気なら避けられた。

それでも、油断していたとはいえ――

一本……取られた。

「俺の勝ち?」

「違う!」

「いや入ったじゃん!」

「今のは私が手加減していたからだ!」

「一本は一本だろ!」

「なら次はもう少し本気で――」

「もう一回やろうぜ!」

「望むところだ!」

「殿下!」

ヴィオレッタの声が飛んだ。
二人が同時に振り返る。

「何だ?」

「何だよ?」

「何だではありません!」

ヴィオレッタは呆れ果てていた。

「蓮様は明日、国民へのお披露目を控えているのですよ! 怪我でもさせたらどうなさるおつもりです!」

「私は怪我などさせん!」

「今、少し本気を出そうとなさっていたでしょう!」

「…………」

「図星ですわね?」

「…………少しだけだ」

「駄目です!」

「えー」

何故か蓮まで不満そうな声を出した。

「もうちょっとやろうぜ」

「駄目です!」

「けち」

「誰がけちですの!」

ヴィオレッタはこめかみを押さえる。
そもそも聖女が竹刀を持って勇者へ一本取って喜んでいる時点で、何かがおかしい。

「あとさ、堅苦しいの苦手なんだ。俺のことは蓮でいいからさ。ヴィオレッタって呼んでいい?」

「えぇ、それはもちろん。よろしくお願いいたしますわ、蓮」

「じゃあ、ヴィオレッタとも友達だな!」

その人懐っこい笑顔に、ヴィオレッタも思わず笑みが漏れた。

◇

訓練を切り上げた後、蓮が改めて切り出した。

「でもさ、俺、やっぱ戦えると思うんだよな」

「……まあ」

アルベルトも、先ほどよりは否定しづらそうだった。

「少なくとも、剣を握ったこともない人間ではないことは認める」

「だろ?」

「だが、相手は魔物だぞ」

「慣れればいけるって」

「簡単に言うな」

「結界ってのも使えるんだろ?」

「ええ」

答えたのはヴィオレッタだった。

「聖女固有の結界魔術は、非常に強力だとされています。魔族の攻撃すら防いだ記録が残っていますわ」

「じゃあ、それ使いながら戦えばいいじゃん」

「……普通は結界の内側で身を守るために使うものです」

「でも使い方次第じゃね?」

蓮は自分の竹刀を見る。

「これに結界張ったりできないの?」

「竹刀に?」

「うん」

「…………」

ヴィオレッタが考え込む。

「聞いたことはありませんわね」

「できない?」

「できないとは申しておりません。そもそも、歴代聖女の誰一人として、そのような使い方を試した記録がありませんもの」

「じゃあ試してみようぜ!」

蓮の顔が輝いた。

「結界まとわせて殴ったら、めちゃくちゃ強そうじゃん!」

「お前は聖女の力を何だと思っているんだ!」

アルベルトが叫ぶ。

「便利な魔法?」

「もっと神聖に扱え!」

「でも強そうだろ?」

「それは……」

アルベルトが一瞬黙る。

「……まあ、強そうではある」

「殿下まで乗らないでくださいませ!」

◇

結局、その日は日が傾くまで訓練場にいた。

聖女の魔法については、明日の式典後にヴィオレッタから正式に指導を受けることになった。
蓮は最後まで不満そうだったが、さすがに召喚初日にこれ以上詰め込む必要はないということで、ようやく解散となった。

「じゃあな、アル!」

自室へ戻る分かれ道、蓮が軽く手を上げる。

「明日またな!」

「…………」

「何だよ」

「……その呼び方」

「アル?」

「…………」

アルベルトは一瞬だけ何か言いかけた。だが――

「……好きにしろ」

「おう」

「ただし、人前では少しは考えろ!」

「分かった分かった」

「絶対分かっていないだろう!」

蓮は笑いながら廊下の向こうへ歩いていく。

「じゃ、おやすみ!」

「……ああ」

その背中が見えなくなるまで、アルベルトは立っていた。

「殿下」

「何だ」

隣に残っていたヴィオレッタが声をかける。

「随分と楽しそうでしたわね」

「何がだ」

「今日一日です」

「別に」

「では、先ほどからずっと笑っておられるのは何故でしょう?」

「…………」

アルベルトが、自分の頬へ手を当てた。

「笑ってなどいない」

「笑っておられますわ」

「気のせいだ!」

「そういうことにしておきましょう」

ヴィオレッタは小さく笑った。
アルベルトは不満そうに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。

そして、自室へ戻る直前――誰にも聞こえないほど小さな声で、ぽつりと呟いた。

「……友達、か」

生まれて初めてできた。
自分を王子ではなく、ただの十七歳の少年として扱う相手。

これまでアルベルトは、勇者となる第一王子として、常に理想を求められてきた。

おまけに、この見た目である。
黙っていれば、理知的で優雅にみえる完璧な王子様。
誰もが勝手にそんな人物像を思い描き、実際のアルベルトがごく普通ーーいや、少し抜けている十七歳の少年だと知れば、幻滅された。

はっきり口にする者は滅多にいない。
だが、ほんのわずかに曇る表情を見れば、さすがのアルベルトにも分かる。

蓮は違った。
男の聖女など嫌だと子供のように散々駄々をこねても、特に気にした様子はなかった。
剣の稽古でむきになっても、呆れるどころか楽しそうに笑っていた。

そして――もう一つ。

アルベルトは、魔王との戦いが怖かった。
勇者なのだから、そんなことを口にしたことはない。

聖女が来れば自分が守る。
魔王など必ず封印してみせる。
――そう威勢のいいことばかり言ってきた。

けれど冷静に考えれば、魔物の巣食う土地を越え、最後には魔王城へ乗り込まなければならないのだ。

正直、行きたくない。
怖いものは怖かった。

だが蓮は、突然異世界へ連れてこられたというのに、文句一つ言わなかった。
怖くないと言えば嘘になると言いながらも、前へ進もうとしている。
それどころか、魔王退治すら楽しみのように振る舞っていた。

そんな蓮を見ていると、不思議と自分まで大丈夫なような気がしてくる。

蓮が隣にいてくれるなら――こんな自分でも、皆が期待するような勇者になれるかもしれない。

その感覚が何なのか。
アルベルトは、まだよく分かっていなかった。

ただ、悪くない。
むしろ――かなり嬉しい。
こんな気持ちは初めてだった。

そしてその夜。
せっかく芽生えたばかりの二人の友情を、あの不可解な力が再び邪魔しに来ることを。
この時のアルベルトは、まだ知らなかった。


第5話 魔王より厄介な強制恋愛システム

その日の夕方。
訓練場から戻ったヴィオレッタのもとへ、父の侍従が慌ただしくやって来た。

「お嬢様。公爵閣下がお呼びです」

「お父様が?」

召喚の直後。
男の聖女を目にした父は、ショックを受けてそのまま白目を剥いて倒れた。

「先ほど意識を取り戻されました。ただ……お嬢様と二人きりで話がしたいと」

ヴィオレッタは、その言葉に安堵し、急いで父の部屋へ向かった。

◇

「入りなさい」

寝室へ入ると、ヴィルフリートは大きな寝台へ身体を起こしていた。

顔色はまだ悪い。
だが意識ははっきりしている。

「お父様。お身体は?」

「今はそれどころではない」

開口一番だった。

「扉を閉めなさい。それから鍵を」

「……はい」

ヴィルフリートはさらに杖を振り、室内全体へ防音の魔術を施した。

「……これでいい」

ヴィオレッタは訝しげに父を見る。
ただ二人で話をするだけなら、ここまでする必要はない。

「お父様……?」

「ヴィオレッタ」

ヴィルフリートは低い声で娘の名を呼んだ。

「召喚の間に邪教徒が入り込み、聖女を襲ったそうだな」

「はい」

「そしてアルベルト殿下が、いち早く聖女を救ったと聞いている」

「その通りですわ」

「そのとき……殿下に、何かおかしなところはなかったか?」

「おかしなところ、ですか?」

「何でもいい。普段とは違う言動だ。妙に芝居がかっていたとか、本人らしくないことを言ったとか……」

ヴィオレッタは目を瞬いた。
なぜ父がそんなことを聞くのだろう。

だが――心当たりはあった。

「……ございました」

ヴィルフリートの肩がぴくりと震えた。

「なんだ」

「邪教徒を退けたあと、殿下は蓮の顎に手を添えて、命に代えても守り抜くとおっしゃったのです」

ヴィルフリートの頬が引きつった。

「……あまりにも殿下らしくなかったので、妙だとは思っておりました」

いや、誰かを守るという言葉そのものは、彼らしい。
問題は、その言い回しや表情、仕草、声色だった。

普段のアルベルトは、美少女を助ければ、鼻の下を伸ばして褒めてもらえないかとちらちら反応を窺うような――実に単純でしょうもなく、見た目とのギャップが酷い残念王子なのである。

ましてや、今回助けた相手は男だ。
それなのに、まるで恋愛小説に登場する理想の王子様そのものだった。

「……それに、あの台詞には覚えがございます」

「……何?」

「確か、古い恋愛小説の一節だったような……」

そこまで言ったところで、ヴィオレッタはふと視線を横へ向けた。
寝台脇の小さなテーブルに、一冊の本が置かれている。

「あ」

『聖女は勇者に恋をする』
千年前に書かれた、五代目勇者と聖女をモデルに描いた恋愛小説だった。

「そう、これですわ!」

ヴィオレッタは本を掴み取ると、ぱらぱらとページをめくった。

「確か、この辺りに……あった!」

物語の序盤。
初めて敵に襲われた聖女を勇者が救い出す、あの有名な場面である。
勇者は震える聖女の顎に手を添え、優しく語りかける。

『無事か? 怖い思いをさせてすまない。だが、君のことは私が、この命に代えても守り抜く!』

「……やはり、同じですわね」

一語一句、まったく同じだった。

台詞だけではない。状況も、仕草までもが完全に一致している。

ヴィルフリートの額から、大粒の汗がぽたりと流れ落ちた。

「…………」

「まさか、殿下はこの本をこっそりお読みになっていたのでしょうか?」

「違う」

低い声で即答する。

「ですが、お父様。殿下は昔から聖女様のお話が大好きですもの。普段は本などろくに読みませんけれど、この本だけは――」

「それはない」

そう断言したヴィルフリートの顔色は、青白いを通り越して、もはや土気色である。

「……お父様? なぜ、そこまで言い切れますの?」

ヴィルフリートはしばらく黙っていた。
やがて深く息を吐く。

「ヴィオレッタ。今から話すことは、ロズウェル公爵家でもごく一部の者しか知らぬ」

「……はい」

「本来ならば、お前には生涯知らせぬつもりだった」

ヴィオレッタの表情が引き締まる。

「我が家の次期当主はお前の弟だ。そしてお前はアルベルト殿下の婚約者だった。ゆえに、この秘密を知る必要はないと考えていた」

その婚約は、昨日解消されたばかりである。

「だが、あの子はまだ幼い」

ヴィルフリートは目を伏せる。

「そして今、この国には……おそらく、歴代のロズウェル家が経験したことのない事態が起きている」

「歴代の……?」

「お前に託すしかない」

ヴィルフリートは、決意した瞳で娘を真っ直ぐに見た。

「魔王封印について、どこまで知っている?」

「一般に知られている程度ならば」

ヴィオレッタは答える。

「異世界から召喚された聖女様と、当代の第一王子たる勇者が魔王のもとへ向かい、愛の力によって魔王を封印する。そして歴代の聖女様は初代を除き、勇者と結ばれ、のちの王妃となった」

「そうだ」

ヴィルフリートが頷いた。

「そして魔王の封印期間は、毎回異なる」

短いときもあれば、長いときもある。
二百年足らずで解けた封印もあれば、千年近く保った封印もあった。
その理由については、長く研究が続けられてきた。

魔王の力、聖女の魔力、勇者の力量。
さまざまな説が唱えられた。

そこでロズウェル家は、夫婦となった後の記録も含め、歴代の勇者と聖女の言動を分析した。
その結果、一つの明確な傾向が示されたのだ。

「勇者と聖女が深く愛し合っていた時代ほど、魔王の封印期間は長い。逆に、二人の関係が冷えていた時代ほど短い。例外なくそうだ」

「では……」

「ああ」

ヴィルフリートは頷く。

「魔王封印の期間を決定しているのは、勇者と聖女の愛の深さだ。それは、ほぼ間違いない」

なんとも壮大な話だった。
国家どころか世界の命運が、若い男女の恋愛事情に左右されている。
だが伝承でも、魔王を封じるのは『愛の力』とされているのだから、実際その通りなのだろう。

「そこで歴代のロズウェル家は、一つの役目を担ってきた」

「役目?」

「我々は、聖女を召喚するだけではなく、勇者と聖女が魔王を封印する旅にも同行してきた」

「……え?」

思わず声が漏れた。

「ですが記録では、勇者様と聖女様、お二人だけで旅をされたと」

「表向きはな。ロズウェル家の人間が同行していたことは、すべての公的記録から消されている」

ヴィオレッタは言葉を失った。

古より語り継がれてきた、勇者と聖女の二人旅。
数々の困難を二人で乗り越え、その中で愛を育み、最後には魔王を封印する。
その恋愛伝説に、実はロズウェル家の人間がついて回っていた。

「我々の役目は、二人が親密になるよう、陰から支援することだ」

「一体、どのような?」

ヴィルフリートは一瞬、娘から目を逸らしたが、苦々しく口を開く。

「……必要とあらば、精神干渉魔術も使用した」

ヴィオレッタの眉が動く。

「勇者が聖女を意識するよう誘導する。聖女が勇者へ好感を抱くよう働きかける。互いへの警戒心を薄れさせ、二人きりになる機会を作り、場合によっては感情そのものへ干渉する」

「…………」

「すべては魔王封印を長く保つためだ」

重い沈黙が落ちた。
ヴィオレッタは何を言えばいいのか分からなかった。

「それは……かなり、問題のある行為なのでは?」

ようやく声を絞り出す。

「分かっている」

「分かっていて続けてきたのですか?」

「世界を救うためだ」

ヴィオレッタは唇を噛んだ。

自分の一族に、とんでもない秘密があった。
だが今は、それを責めている場合ではない。

「……それで、お父様」

ヴィオレッタは先ほどの本を見る。

「その秘密と、殿下がこの本と同じ行動をしたことに、何の関係が?」

「それを説明するには、歴代の勇者と聖女について話さねばならん」

「それを説明するには、歴代の勇者と聖女について話さねばならん」

歴代には、精神干渉魔術などなくとも自然に恋に落ちていたであろう二人もいた。

その代表が、五代目の勇者と聖女だった。
二人は出会った当初から相性が良く、旅を通じて深く愛し合うようになった。
魔王封印後、精神干渉魔術の効力が失われても、その愛情が薄れることはなかったという。

生涯にわたり仲睦まじく暮らした二人は、歴代でも屈指のおしどり夫婦として知られている。
その愛の力によって、魔王は実に八百年もの長きにわたり封印された。

だが――六代目の勇者のとき、事態は一変した。
なんと、勇者が聖女にまったく興味を示さなかったのである。
このままでは魔王を封印できない。焦った当主は、強硬手段に出た。

勇者が聖女を拒絶した場合。
五代目の恋愛小説に描かれた名場面を、強制的に再現させる魔術をかけたのだ。

勇者の言葉、仕草、表情、そして行動までもが、物語の筋書きに沿って操られる。
当時の六代目勇者には、これとは別に強い精神干渉魔術も施されていたため、強制された言動をすべて自分の意思によるものだと信じ、何の違和感も抱かなかったという。

こうして六代目の勇者と聖女は、物語のような恋愛を経て結ばれ、魔王封印に成功した。

ところが、魔王封印後に精神干渉魔術の効力が失われると、二人の関係は急速に冷え込んだ。
婚姻を結び、王と王妃になったにもかかわらず、互いへの愛情は薄れ、やがて二人とも別の愛人を持つようになったという。

そして――六代目の魔王封印は、わずか百五十年しか保たなかった。
歴代でも異例の短さである。
それが、今回の魔王復活へとつながっていた。

「…………」

すべてを聞き終えたヴィオレッタは、しばらく言葉を発することができなかった。
やがて、その拳がわなわなと震え始める。

「……お父様」

「な、なんだ?」

「それは……あまりにも酷い話ではありませんこと?」

声は静かだった。
しかし、目はまったく笑っていなかった。

「世界を救うためとはいえ、人の心を勝手に操り、本人の意思まで捻じ曲げるなど……!」

「ま、待て。落ち着きなさい」

「しかも、それが原因で不幸な結婚生活を送ることになったのでしょう!? そのようなものを愛と呼んでよろしいのですか!」

「そ、それは……」

ヴィルフリートは言葉に詰まった。

「……まさか」

ヴィオレッタは、はっと顔を上げる。
そして手元の本を見た――『聖女は勇者に恋をする』

その中に書かれていた、五代目勇者の台詞。
今日、アルベルトが蓮に向かって口にした言葉。
一語一句、まったく同じだった。

嫌な予感が、確信へと変わっていく。

「まさか、殿下のあの不可解な言動は……その魔術が原因なのではありませんこと!?」

「そ、それはだな……!」

「お父様!!」

ヴィオレッタが詰め寄ると、ヴィルフリートは慌てて両手を振った。

「ま、待て! 誤解するな! 今回、あの術をかけたのは私ではない!!」

「では、どなたが!?」

「六代目勇者の時代のロズウェル家当主だ! お前にとっても七代前のご先祖様なのだぞ!!」

ヴィルフリートは必死に弁明を始めた。

「その当主は、六代目勇者の魔王封印に成功したことを誇るあまり、あろうことか、その魔術を聖女召喚の術式に組み込んでしまったのだ!」

「……召喚術式に?」

「そうだ! もし勇者が聖女を拒絶した場合、五代目の恋愛名場面を強制的に再現させる仕組みだ!」

「…………」

「名付けて、『強制恋愛再現システム』!」

なんとも馬鹿馬鹿しい名前だった。
いや、名前の問題ではない。
ヴィオレッタは、ゆっくりと口を開いた。

「……お父様」

「な、なんだ?」

「そんな、とんでもない術式を……なぜ、そのままにしておいたのですか?」

「…………」

ヴィルフリートが目を逸らした。

「お父様?」

「い、いや……だって……実際、勇者が聖女を愛さなければ世界は滅ぶわけだし……ほ、保険の意味でな……」

「保険!?」

「そ、それにだ!!」

ヴィルフリートは、ここぞとばかりに声を張り上げた。

「あの聖女大好きなアルベルト殿下が、聖女を拒否するなど、誰が想像できるというのだ!!」

「…………」

「幼少の頃から、黒髪黒目の美少女聖女に憧れ続けてきた殿下だぞ!?」

それは、確かにそうだった。
十年間も婚約者だったヴィオレッタは、誰よりもよく知っている。
アルベルトは昔から、聖女という存在に並々ならぬ憧れを抱いていた。

もっとも、聖女の尊い使命や慈悲深い心に惹かれていたというより、歴代の肖像画に描かれた黒髪黒目の美少女に鼻の下を伸ばしていたという、実に分かりやすい理由である。

「そのうえで私は、殿下の好みにぴったり合う聖女を召喚すべく、日夜研究に励んできたのだ!」

ヴィルフリートの声に熱がこもる。

「歴代の召喚術式を徹底的に研究し、召喚対象の容姿や年齢にまで条件を加え、勇者が一目で恋に落ちるような聖女を選び出す! そのために、どれほどの年月を費やしたことか!」

「……お父様」

言葉にすると、なんとしょうもない研究なのだろう。

「そして、ついに完成したのだ! 初代聖女の面影を持つ、黒髪黒目の美少女――黒瀬美咲を選び出す術式が! なのに!!」

ヴィルフリートは、ついに叫んだ。

「まさか、兄が妹を突き飛ばして、代わりに召喚されるなど、誰が予想できるというのだぁぁぁ!!」

「…………」

「私は間違っておらん! 術式は完璧だった! あのような想定外の事態さえ起こらなければ、殿下は美少女聖女と恋に落ち、何の問題もなく魔王封印の旅へ出発していたはずなのだ!!」

寝台の上で、ヴィルフリートが肩で息をしている。

「そもそも私は、殿下には不要と思って、歴代勇者にはかかっていた精神干渉魔術すらかけていないのだぞ」

ヴィオレッタは、しばらく無言で父を見つめた。
やがて深く息を吐いた。

今ここで、七代前のご先祖様を責めても仕方がない。
父と親子喧嘩をしている場合でもない。
何より、すでに術式が発動してしまった以上、これからどうするかを考える方が先決である。

「……分かりました、お父様」

ヴィオレッタは気持ちを切り替えた。

「つまり、現在のアルベルト殿下には、精神干渉魔術はかかっていない。ですが、強制恋愛再現システムだけは、すでに作動してしまっている、と」

「……おそらくな」

ヴィルフリートは、力なく頷いた。

「殿下が聖女を拒絶したことで、召喚術式に組み込まれていた魔術が発動したのだろう。今日の殿下の言動が五代目勇者のものと完全に一致している以上、まず間違いあるまい」

「では、殿下は今後も、ご自身の意思とは関係なく、あのような行動を取らされるのですか?」

「……そうなる可能性が高い。もっとも、こたびは精神干渉魔術をかけておらぬ。殿下の意識がはっきりしていれば、自分の言動に違和感を覚え、抵抗できるかもしれぬが……」

確かに、昼間のアルベルトは、夢にまで見た聖女が男だったことに大きな衝撃を受け、すっかり放心していた。
もし、冷静さを保っていたなら、抗うこともできるのだろうか――。

「…………」

ヴィオレッタは、手元の本を見下ろした。

恋愛小説の中で、勇者と聖女が愛を育む数々の名場面。
それらが、これから現実に再現されるかもしれない。

「……解除する方法は?」

「大至急、術式の解析に取りかかるつもりだ」

「では、解除できるのですね?」

「……それが、簡単ではない」

ヴィルフリートの表情が曇った。

「何しろ七代前の当主が開発したものだ。数千年にわたり改良されてきた聖女召喚の術式と、複雑に絡み合っておる。すでに殿下に発動してしまった魔術を安全に解除するには、まずその仕組みを完全に解明せねばならん」

「どれほど時間がかかりますの?」

「……少なくとも、数カ月はかかるかもしれぬ」

「数カ月!?」

ヴィオレッタは思わず声を上げた。

「魔王が復活しているのに、そんな悠長に待てませんわ!」

なにせ出発は明後日である。
魔王復活後、魔物が凶暴化して被害が広がる早さも歴代でバラつきがあり、それも前の代の勇者と聖女の愛の深さが影響しているのだろう。

前回の封印が歴代最短だったことを思えば、もはや一刻の猶予もない。

「し、仕方があるまい! 下手に術式を弄れば、何が起きるか分からんのだ!」

「そんな無責任な!」

しかも、どのような場面で発動するのか分からない。

突然、アルベルトが蓮の手を握るかもしれない。
甘い言葉を囁くかもしれない。
もっと親密な口に出せないような場面まで再現される可能性だってある。

「お父様! 何とかしてくださいませ!」

「無論、私も全力を尽くす!」

ヴィルフリートは、ようやく公爵家当主らしい真剣な表情になった。

「私は王都に残り、術式の解析と解除方法の研究に専念する。魔王封印の旅が続く間も、可能な限り手を尽くそう。だからお前には、勇者と聖女の旅に同行してもらう」

ヴィオレッタは目を見開いた。

「わたくしが、ですか?」

「そうだ」

ヴィルフリートは力強く頷く。

「本来ならば、ロズウェル家当主として私が同行すべきところだが、今は術式の解除が最優先だ。それに、お前ならば魔術の腕も確かだし、何よりアルベルト殿下のことを誰よりもよく知っている」

「…………」

「ヴィオレッタ。お前にしか頼めぬ」

父は、娘を真っ直ぐに見つめた。

「もし旅の途中で強制恋愛再現システムが発動したら、何としてでも阻止するのだ!」

「……阻止?」

「ああ! 五代目の恋愛小説に描かれた場面が再現されそうになったら、すぐに止める! 殿下が妙なことを言い始めたら、即座に引き離せ!」

「…………」

「そもそも、そうした場面が発生しないよう、先回りして対処するのだ! この本に書かれている恋愛場面を、すべて頭に叩き込んでおけ!」

ヴィルフリートは、ヴィオレッタの持つ本を指さした。

「それが、お前の使命だ!」

ヴィオレッタは、呆然と父を見つめた。

つい昨日まで、自分の婚約者だったアルベルト。
その彼と、異世界から召喚された男の聖女。
この二人が恋愛小説の名場面を再現しないよう、必死になって阻止しなければならないらしい。

「とはいえ、二人の愛が深まらねば世界が滅ぶ。よって、強制恋愛システムではなく、自然に愛が深まるよう支援も怠るな」

「…………」

ヴィオレッタは、額を押さえた。

(……それは、あまりにも無理難題ではありませんこと?)


第6話 星空の下の強制恋愛イベント

その夜。
王宮の庭園は、昼間とはまるで違う表情を見せていた。

白い石畳を月明かりが照らし、手入れされた花々の間を冷たい夜風が抜けていく。
頭上には雲一つなく、無数の星が瞬いていた。

この庭園は、五代目勇者と聖女をモデルに描いた恋愛小説『聖女は勇者に恋をする』において――初めて互いの心を大きく近づける名場面の舞台だった。

◇

『……帰りたい』

召喚された日の夜。
聖女は一人、庭園で泣いていた。

知らない世界。
知らない人々。

魔王を封印するための命を懸けた旅。
そして何より、元の世界へ帰る方法が分からないという現実。

『お父さん……お母さん……』

聖女は泣きながら夜空を見上げる。

自分が突然いなくなって、家族は今頃どうしているのだろう。
心配しているに決まっている。
もしかしたら、二度と会えないかもしれない。

そう考えるだけで、涙が止まらなかった。

『泣いているのか?』

背後から声がして、聖女が振り返る。
そこには勇者が立っていた。

『殿下……』

聖女は慌てて涙を拭った。

『ご、ごめんなさい。こんなところで』

『謝る必要などない』

勇者はゆっくり聖女へ近づいた。

『突然知らない世界へ連れてこられ、魔王と戦えなどと言われたのだ。怖くないはずがない』

『…………』

『君のことは私が必ず守る』

聖女の頬へ手を添える。

『魔王を封印した暁には、初代聖女のように故郷へ帰ることもできるだろう』

『……本当に?』

『ああ』

勇者は優しく笑う。

『だが――』

ほんの少し、寂しそうな表情を浮かべた。

『私は、君を帰したくない』

『え……?』

聖女の頬が赤くなる。
そして、そのまま二人は抱き合う。

異世界へ召喚され、不安に押し潰されそうになっていた聖女。
そんな彼女を支える、美しい勇者。

物語序盤の代表的な名場面だった。

◇

(……だったのだけれど)

柱の陰。
ヴィオレッタは、庭園をじっと見つめていた。

もちろん恋愛小説のように、聖女の姿はない。
いるはずもない。

今代の聖女は黒瀬蓮なのだから。
竹刀という武器を片手に召喚され、魔王を倒すことにやたら前向きな少年である。

(歴代の聖女は、召喚された日の夜に皆ホームシックに陥ったと記録されてますが、さすがに今回は何も起こりませんわよね)

昼間。
アルベルトの身体は、明らかに本人の意思とは無関係に恋愛小説通り動いた。

敵を倒した順番、聖女へ近づく動き、顎へ触れる手。
――そして台詞まで。

偶然ではない。
何かがアルベルトを、恋愛小説と同じ筋書きへ押し込もうとしている。

だが、それにも限度はあるはずだ。

この場面は、聖女がホームシックになって庭園へ出てきたことで始まる。

(あの方ですもの)

召喚された直後から、『異世界じゃん!!』と喜び。
魔王討伐を命じられても、『俺やるぜ!』と即答。

今日一日だけでも、城内の武器、魔法、騎士、果ては食堂の料理にまで目を輝かせていた。

ヴィオレッタは断言できる。
黒瀬蓮に、今夜ホームシックイベントが発生する可能性は限りなく低い。

「…………」

そう思っていた。
思っていたのだが――

「うっわ……」

庭園の向こうから、聞き覚えのある声がした。

ヴィオレッタの背筋が伸びる。

(嘘でしょう!?)

現れたのは蓮だった。
寝間着の上へ簡単な上着だけを羽織っている。

ヴィオレッタは柱へ身を隠しながら、息を呑んだ。

(まさか……)

昼間はあれほど明るく振る舞っていた。
けれど考えてみれば、蓮も十七歳だ。

元の世界には家族も友人もいる。
帰る方法は分からない。
明後日には、魔王を封印するための命懸けの旅へ出なければならない。

怖くないはずがない。
元気そうにしているのは、単なる強がりだったのかもしれない。

(恋愛小説の聖女と、同じように……?)

蓮はゆっくり庭園の中央まで歩いていく。
そして、空を見上げた。

「…………」

しばらく黙っている。

(やはり、故郷のことを――)

次の瞬間。

「すっげえええ!!」

「…………」

ヴィオレッタの肩から力が抜けた。

「星めちゃくちゃ見えるじゃん!」

蓮は完全にはしゃいでいた。

「東京じゃ絶対こんなの見えねえぞ!」

庭園の中央をうろうろしながら空を見上げる。

「天の川まで見える! マジかよ!」

(ですよね)

ヴィオレッタは額を押さえた。
少しでも心配した自分が馬鹿だった。

ホームシックどころか、単に夜空を見に来ただけである。

「いやー、異世界すげえなあ」

蓮は庭園の縁へ腰掛ける。

「スマホあったら写真撮りてえ」

(これなら大丈夫ですわね)

泣いている聖女がいないのだから、アルベルトが慰める理由もない。

しかも現在の時刻なら、とっくに寝台へ入っている頃だ。
彼は昔から夜更かしを好まない。

(さすがに恋愛小説の再現といっても、これ以上は――)

そこで、ざっと背後から足音がした。

「?」

ヴィオレッタが振り返る。
人影がゆらゆらと近づいてくる。

「…………」

蜂蜜色の金髪に白い寝間着。
その足元は裸足である。

「…………え?」

アルベルトだった。

ただし――目を閉じている。

「…………」

ふらり。

一歩。
また一歩。
まるで夢遊病患者のように、庭園へ向かって歩いていく。

「…………」

ヴィオレッタは何度か瞬きをした。

「え」

もう一度確認する。
間違いない。寝ている。

「えぇぇぇぇぇ!?」

思わず声が出た。

(そこまで強制力が働きますの!?)

アルベルトは起きてすらいない。
なのに、恋愛小説の名場面を再現するため、寝台から勝手に起き上がり、裸足のまま庭園まで歩いてきたらしい。

(怖い怖い怖い!!)

もはや恋愛ではない――怪談である。

この状態で蓮へ近づき、『泣いているのか?』などと言い始めようものなら、ロマンチックどころか、恐怖しかない。

ヴィオレッタは柱の陰から飛び出した。

「殿下!」

「…………」

反応なし。

「殿下!!」

「…………」

アルベルトは止まらない。
そのまま蓮のいる方向へふらふら進んでいく。

「起きてくださいませ!!」

ヴィオレッタは躊躇なく、肘をアルベルトの脇腹へ叩き込んだ。

「ぐっ!?」

アルベルトの身体が折れた。

「な、何をする!?」

青い瞳が開く。
どうやら完全に目を覚ましたらしい。

「ヴィオレッタ!?」

「ようやく起きましたのね!」

「何だ! 何故お前が私の寝室に――まさか」

何か盛大に勘違いしたらしい。
明らかに顔が緩んでいる。

「婚約を解消したというのに、未だ私のことを忘れられず……夜這いに来たのか?」

「寝言は寝てからおっしゃってくださいませ!」

「なっ!」

ヴィオレッタの容赦ない拒絶を受けながらも、アルベルトはなおも言い募る。

「いや、だが実は私もお前が――」

「何も聞いておりません!」

「最後まで言わせろ!」

ヴィオレッタは冷たい視線を向ける。

婚約解消に浮かれていたくせに、今さら惜しくなったらしい。
本当に分かりやすい男である。

「それより殿下」

「何だ」

「ご自分が何故ここにいらっしゃるか、お分かりですの?」

「……何?」

アルベルトが改めて周囲を見た。
夜の庭園である。

「…………」

ようやく状況を理解し始める。

「何故だ」

「存じません」

「私は寝ていたはずだぞ」

「存じております」

「自室の寝台で」

「はい」

アルベルトが、自分の裸足を見る。

「…………」

顔が引きつった。

「まさか、昼間のように勝手に体が……」

「そのまさかかと」

「またか!? 蓮は!?」

「向こうにいらっしゃいます」

ヴィオレッタが示す。

庭園の先では、蓮がまだ空を眺めている。

「何故あいつまでいるんだ!」

「星が綺麗だからだそうです」

「何だそれは!」

「と、とにかく、お部屋へ戻りましょう」

「ああ!」

アルベルトも全力で同意した。

「今すぐ戻るぞ!」

踵を返す。

――はずだった。

「…………?」

右足が動かない。

「殿下?」

「待て」

「どうなさいました?」

「足が……」

アルベルトの顔が青ざめる。
そして、右足が勝手に前へ出た。

「なっ!?」

続いて左足。
一歩。また一歩――蓮の方へ。

「止まれ!」

アルベルトが自分の脚へ怒鳴るが、当然止まらない。

「殿下!」

「止めろ、ヴィオレッタ!」

「止めておりますわ!」

ヴィオレッタが背後から腕を掴む。
だが、ずるずると、二人まとめて進んでいく。

「何という力ですの!?」

アルベルトが必死で地面を踏ん張る。
それでも身体は蓮へ近づいていく。

「アル?」

ついに蓮が気づいた。

「何してんだ?」

「…………」

アルベルトの顔が絶望に染まった。

「来るな!」

「いや、俺動いてねえけど」

蓮が不思議そうに首を傾げる。
その瞬間、アルベルトの口が勝手に開いた。

「泣いているのか?」

「は?」

蓮が眉を寄せる。

「泣いてねえよ」

「知っている!!」

アルベルトが叫ぶ。

「見れば分かる!」

「じゃあ何で聞いたんだよ」

「私が聞きたい!!」

しかし身体は止まらない。
一歩、さらに近づく。

「殿下!」

「来るなと言っているだろう、蓮!」

「だから俺、動いてねえって!」

右手が上がる。

「やめろ!」

アルベルトは左手で右腕を掴んだ。
それでも右手はじわじわと蓮へ伸びていく。

「何してんの?」

「知らん!!」

「アル、さっきからずっと変だな」

「さっきだけではない!!」

「自分で言うのかよ」

アルベルトの口が、再び勝手に動く。

「君のことは私が――」

アルベルトの顔が引きつった。

「…………っ!!」

抵抗するため唇を嚙み、口内から血の味がする。
そして、低く呟く。

「絶対に嫌だ」

目の前にいるのは――初めて自分を友達だと言った相手だった。

『俺たち、友達……いや、戦友じゃねぇか』

蓮は何の打算もなく笑っていた。

王子だからでも。
勇者だからでもない。

ただのアルベルトに向けて。

「冗談ではない……!」

ようやくできた。
初めての友達だ。

それを、意味不明な力に操られ、甘ったるい台詞を吐き、勝手に抱きしめでもしたら。
――今度こそ、本当に変な奴だと思われてしまう。

「誰が……!」

アルベルトは歯を食いしばった。

「男相手に、こんなラブシーンを――!!」

そして。

「無理やり演じさせられて堪るかぁぁぁぁああああ!!」

左拳を握りしめた。

ごっ!!

アルベルトの拳が、自分自身の顎へ叩き込まれた。

「え?」

蓮が驚きに目を丸くする。
身体がぐらりと揺れ、どさりと、そのままアルベルトは倒れた。

「アル!?」

蓮が慌てて駆け寄る。
ぎりぎりのところで、その身体を受け止めた。

「お、おい!」

「…………」

「アル! 大丈夫か!?」

返事はない。
完全に気絶している。

「うわ、マジで自分で自分殴ったぞ、こいつ」

蓮は呆然とアルベルトを見下ろす。
そして、ふっと吹き出した。

「何だよ、お前」

笑いながら、アルベルトの身体を抱え直す。

「とんでもねえ寝ぼけ癖あんじゃん」

「…………」

事情を知るヴィオレッタは何も言えなかった。

違う。
断じて寝ぼけていたわけではないのだ。

「これ、部屋連れてきゃいい?」

「……ええ。わたくしも手伝いますわ」

「重っ。こいつ見た目より筋肉あるな」

蓮は気絶したアルベルトを肩へ担ぎ、ヴィオレッタも横から支える。

「お前、王子なんだからもうちょっとちゃんと寝ろよ」

意識のない相手へ、呆れたように笑う。
その姿を見ながら、ヴィオレッタは笑えなかった。

(……想像していた以上ですわ)

恋愛小説の名場面を強制的に再現するシステム。
それは単なる偶然や、ちょっと似たような展開を起こす程度のものではないらしい。
5代目勇者と聖女の恋愛ストーリーを、何が何でも起こそうとしている。

聖女が男になっても。
本人が眠っていても。
相手が泣いていなくても。
勇者本人が必死に拒絶しても。

そして、ヴィオレッタは、とある名場面を思い出して、戦慄が走った。

恋愛小説の終盤。
魔王城へ向かう前夜。

明日、自分たちは死ぬかもしれない。
そんな極限状態の中で、勇者と聖女は、一つの宿屋の部屋にいた。

『……怖い』

『私もだ』

『殿下も?』

『当たり前だ』

聖女は驚いた。
いつでも自信満々だった勇者が、初めて弱音を見せたからだ。

『だが、君がいる』

勇者は聖女を抱きしめる。

『だから私は戦える』

『…………』

『今夜だけは、離れたくない』

聖女は少しだけ迷い、やがて――

『……私も』

こくんと頷いた。
そして、恋愛小説のシーンはそこで暗転する。

翌朝。
顔を赤らめた二人が、同じ部屋から出てくる描写だけがあった。

全年齢向けの国民的ベストセラー恋愛小説である。
何があったのかなど、当然明確には書かれていない。だが――

(いや、あれ絶対何かありましたわよね!?)

ヴィオレッタはそう思った。
読者のほぼ全員もそう思っただろう。
少なくとも、そうとしか読めない書き方だった。

「…………」

ヴィオレッタは、蓮に担がれるアルベルトを横目でチラリと見た。

今日。
ただ庭園で慰めるだけのイベントですら、ここまで強引に成立させようとした。

ならば――終盤の、あの場面はどうなる?

(…………まずいですわ)

顔から血の気が引く。
このまま魔王城まで進めば、いつか必ず……あの夜が来る!

(絶対に阻止しなければ)

男同士だからというだけではない。
今日ようやく芽生えたばかりの二人の友情。
それを、本人たちの意思とは無関係な強制恋愛システムなどに、粉々に砕かれてなるものか。

ヴィオレッタは、静かに決意を固めるのだった。